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院長の徒然日記

令和6年3月28日 得意、不得意をどうとらえるか?

今年の桜の開花予想は当初3月中旬でしたが、想定外の寒暖差で開花日がこの時期までずれ込んでしまいました。本当に先の読めない季節が続きます。極端な三寒四温が、我々の心身にずしりと重しの如くのしかかり、気持ちを滅入らせてしまいます。恐らく、想定外な変化は我々から当たり前にあると思われがちが体力を奪っていくように思います。是非、皆さん油断せずに体調を自愛されてください。

前回の徒然では、中学時代の出来事を記しましたが、今回もこの時期の思い出に触れようと思います。私は確かに中学時代、成績は良かったのですが、それはガリ勉に支えられて得たものだと今でも感じています。ただ勉強が好きだから勉強したというよりは、「樋之口は勉強ができるから」などと周囲の期待に応えるために頑張ったのだと思います。しかし、不思議なもので、さして勉強しなくても好成績を収める友人がいました。それもクイズに答えるように手も足も出ないような難問をいとも簡単に解くのです。彼は人づきあいも上手く、相手の状況にさっと寄り添う器用さも持ち合わせていました。当然ですが、私は、そんな彼に羨望と悔しさを覚え、打ち勝つべく、更にガリ勉を強化していきました。しかし、この努力は私に消耗と劣等感を与えるだけに終わりました。高校受験の直前になると、彼は意気揚々と成績を伸ばし、私は疲労困憊から成績を維持するのが精一杯でした。結局、彼は都内のとある高校に、私は居住区内の県立高校に進学し、別々な人生を歩むことになりましたが、内心、努力では最早打ち勝てない戦いから解放され、安堵したことが思い出されます。

今になって見てればよく分かるのですが、そもそも彼と私の持ち味は異なっていたのです。彼はサッと感覚的に進むタイプで、私はじっくり考えて進むタイプなのだと思います。だから、彼が感覚的に判断するプロセスを、私は「何故そう判断するのか」と理屈に落とし込んで考え、時間をかける必要がありました。その意味では、受験など期限時間内で瞬時に結果を残す作業は、私には向いていないのだと思います。ただ、人生経験の乏しい当時の私からすれば、「即断即決は良いこと、時間をかけることはダメなこと」などと優劣で判断し、「彼のようにならないといけない」と常に考えていたのだと思います。当然、自分を否定しているのだから、苦しくなって当然に決まっています。

最近、とある発達障害の治療に纏わる書籍を読んでいて、「苦手な能力を、世の中の価値基準と比較して優劣で価値づけするから、発達障害の患者さん達が自己否定を強め、闇雲な孤軍奮闘に陥っていく」という件に目が留まりました。その中で、苦手は優劣ではないこと、時間をかけて問題を整理し対処法を具体的にすること、そして、信頼できる他者に相談し一人で悩みこまないことなどが論じられていました。この示唆はまさに、私が中学時代の経験を彷彿とさせるものでした。苦手なのだから、時間がかかって当たり前だし、むしろ時間をかけて取り組んだ方が、対処法のコツが見いだせるのだと思います。恐らく、「うまく対処せねば」と解決を拙速に急ぐと空回りを起こし、却って糸口が分からなくなってしまい、実は解決にもっと時間を要してしまうのでしょう。やはり、自分の味を押さえることは、時代が変わっても我々が人として生きる上で不変なことなのでしょう。そのためには、世の中でいう「普通」「常識」という言葉を疑ってみる目も我々は養っていく必要があるかもしれません。

先日、公園を散歩していたら、柳の枝に新緑と花で仄かな緑色を呈していました。枝は春の知らせを伝える湿り気のある風に揺られ、私にほのぼのとした気持ちを与えてくれました。柳は自分の味に抗うことなく伸びやかに生きている。柳から言わせれば、「突っ張って生きるから辛くなるのだ、流れに身を任せてみろ、楽だぞ」とささやいているようにも見えます。柳も然り、我々も然り、やはり自然体が大切なのだと思います。

樋之口潤一郎

春の知らせ
令和6年2月16日 我が家の猫 その1

患者さん皆さん、こんにちは。

大雪に見舞われたかと思えば、4月中旬の温かさが突然、都心に舞い降り、我々の心身を翻弄しようとしています。本来なら温かさに心の緊張を緩ませ、仄かな幸福感すら覚えるはずなのに、変化の大きさがその気持ちに水をさし、困惑だけを与えています。変化は、新しい体験を我々に与え、成長させる原動力にもなりますが、一方で心身を緊張させるストレスの温床にもなるのです。生きることは変化の連続だから、本当に悩ましいものです。

私は、元々変化に即応できるタイプではありませんでした。中学以降、クラス替えの度に、新しい雰囲気に馴染めず、級友が足早に輪の中に溶け込むことを、横目で何となく羨んでいました。当時も、器用に立ち振る舞う級友が優位で、不器用な振る舞いからクラスの脇に追いやられる級友が劣位であるなどのカーストは、今ほどでないにしてもあったと思います。1980年代は、ヤンキー全盛でしたから、リーゼントや反り込みを入れながら、ボンタン(だぼだぼの長い学ラン)を着て廊下を闊歩する仲間がクラスの中心でした。彼らは運動が得意なだけでなく、人への立ち回りも本当に器用でした。「センコウ!(先生を呼び捨てするスラング)、ぶっ殺す」などと言いながら、先生等と打ち解ける気さくさを持ち合わせていました。だから自然にクラス替えでも、クラスの雰囲気に馴染んでいったのだと思います。今思えば、変化を物ともしない彼らのツッパリ根性は、「たいしたものだ」と感じています。

これに対して、自分は不器用であることを無意識に自認していたので、彼らの虐めの的にならないために、必死に勉強して成績を上げることで身を守ったのだと思います。勿論、私がクラスの中心になることはありませんでしたが、勉強のお蔭か、彼らが「数学分かんねえ、まじヤベエ、樋之口助けてくれ~」と頼ってくるようになりました。そこで、彼らと高校受験終了まで不思議な縁で結ばれ、我々は卒業式を節目に散会していきました。結局、慣れぬままに中学を終えていったのですが、今思えば、慣れようと相手に媚びを売らず、一見堅物でも自分らしい対処で乗り切ったから何とかなったのかなと考えたりしています。この体験から、変化への対応の遅さが問題なのではなく、遅いことがいけないと感じて、無理矢理、器用に慣れようとする姿勢が問題なのだと、改めてこの徒然を書きながら再発見しました。

そして、今から10年前、私は自宅で初めて猫を飼うことになりました。当時は、大学病院の激務で疲労困憊でしたから、妻が見かねて、私に癒しを与えようとして、猫をペットショップから購入する運びとなったのです。しかし、カエルやトカゲなどには全く抵抗がないのに、哺乳類には強い抵抗がありました。というのも、私が10歳頃、近くで飼っていたワンちゃんに追いかけられ、噛まれた経験があったからです。そのため、生理的に犬猫は変えないと感じていたのですが、妻は「つべこべ言わず、まず猫に触れてみる、それから考えるように」と私の抵抗を一刀両断に切り捨てて、ペットショップに連行されることとなりました。

結局、ペットショップで、私にすり寄った猫を購入し、以後、我が家の家族となったのです。名前は茶々丸(我が家では茶々と呼んでいます)と付けました。最初は、しつけても、トレイ砂でウンチをせず、リビングで粗相をすることが良くありました。「匂いの立ち込めるリビングで食事をするなど勘弁!」などと嘆いたりもしましたが、妻から「慣れるのには時間がかかるから仕方ない!それにウンチをするのが生き物の宿命、それを片付けるのは人間の宿命」と諭され、当初は渋々、飼っていたと思います。しかし、彼から時にじゃれてきて、「遊べ」とせがむ様になっていきました。一緒に走っていると、彼も呼応して、近寄ったり離れていったりします。それが何となく面白くなり、次第に茶々への抵抗感が少なくなっていきました。今となっては樋之口家の精神的支柱にすらなっており、彼のいない生活が想像できません。私からすれば、猫という家族が来ることが、大きな変化だったのですが、変化に慣れようとせず、一緒に楽しんだことが、結果的に変化を許容することになったのだと思います。ちなみに慣れるまでは半年かかりました。茶々の心を代弁すれば「やれやれ、世話の焼ける主人だ、俺は単に楽しみたいだけ、それだけで何とかなるのに、何を急いでいるのやら」と呟いているかもしれません。ヤンキーの仲間や猫との絆から学んだことはどうも小さなものではなかったようです。

茶々丸

これが茶々丸です。よろしくお願いします。

令和6年1月19日 完璧主義を磨くとは

皆さん、本年もよろしくお願い申し上げます。
この徒然もなんか月間タイムズのようになってきました。患者さんに結構読んでいただいているようで、ありがたく思っています。診察時間に制約がある分、この徒然が皆さんの診察の補完に繋がればと思っています。

本年に入り、石川県能登半島沖地震や航空機事故など心を重苦しくさせる出来事に見舞われました。もし、この文面を見ている中に関係者がいらっしゃいましたら、心よりお見舞い申し上げます。この震災で2011年3月11日の東日本大震災の当時を想起しました。あの時、私は大学病院で外来をやっていましたが、古い病院が瓦礫になるような不安を覚えました。

1月に入り、急に寒さが厳しくなり、それに乗じて空気の乾燥も進みました。私は、小学生の時、何が嫌いかと言えば、冷たい風と無機質な土埃の中で、半ば強制的にやらされるランニングなど体育の時間でした。グランドの中で起こるつむじ風は、時に小さな体に針の如く凍てつきを与え、その厳しさに、私は両手を袖から体育着の中に押し込め、体を丸めたものです。体育の先生は「子供は風の子、寒さに負けず、しっかり走れ」と威勢よく、当時の少年少女らに声を掛けましたが、私はその標語を嘘くさく感じ、クラスの最後尾で、のそのそと走っていました。運動が大切なのは認識していましたが、私は、早く教室に戻って、図工の授業で当時流行っていたEテレ(教育テレビ)の「出来るかな」という番組を見ること(ノッポさんとゴンタくんの掛け合い)ばかり考えていました。やはり、人間には温もりと潤いが必要なのだと思います。一般的には、男性には温もりを、女性には潤いを与えることが、長生きの秘訣と書いていました。あながち間違っていないと思います。

さて、先日、とある書物で、「完璧主義を磨く」という内容に触れる機会がありました。我々が「あの人は完璧主義だね」と、この言葉を使うときは、決まってあまり良い意味では使わないと思います。それは、完璧主義が些細なことにまで万全を求め、神経質と同義に使われるためです。でも、その著者は、全てを万全にする姿勢は、成長の途上にあり、真の意味での完璧主義ではないと言います。そして、その人は、「本当の完璧主義とは、無駄を削ぎ、一番重要なところだけを浮き彫りにさせることだ」と論を展開しています。真の芸術家は、本当に重要な点に命を宿らせる努力を惜しまないのです。この内容を見て、我々の成長も正に同じだと再認識しました。我々は若い時にはあらゆる物を得ようと多少闇雲に欲張るものです。しかし、年老いていく中で、次第に何かを諦め、一番何を大切にするのかを意識していくのだと思います。そして、残されたものが、その人にとって一番大切な価値なのでしょう。我々がより良く生きる上で、とても大切なテーマだと思います。

そう、最近、我が家で飼っているイモリの水槽を変えました。水を多く入れ、水位を高くしてみました。そして、休める場所を確保するためホームセンターから浮草などを購入しました。その方が、イモリは自由に空間を行き来しています。彼らを見ていると、当然完璧を磨くなどとは到底考えているとは思いませんが、少なくとも完璧ではなく、自由を求めて水中を彷徨っているように見えました。もしかすると、無駄なものを削いでいく先にあるのは、制約の中に見出された一条の光ならぬ、一条の自由なのかもしれません。

ではまた。

次は、我が家の猫(その1)について、2月に掲載したいと思います。

樋之口潤一郎

完璧主義を磨くとは
追伸 写真は雄のイモリ、いっちゃんになります。尾っぽを楕円状に膨らみを持っているのが雄の特徴のようです。

令和5年12月25日 今年の最後に

皆さん、こんにちは。

先日の学会の中で、いつも懇意にさせていただいている北海道の芦澤先生の発表を機会がありました。
芦澤先生は、北海道で依存症の治療に専心されている方で、全国でも有名な先生です。

その先生が、薬物依存症の患者さんを入院中、厳しい規則で管理すると、患者さんは口をつぐみ益々心を閉ざすから、もう管理することは止めたと仰っていました。
これは、従来の薬物依存症の治療からすると、かなり画期的で驚いたのですが、その内容を聞けば成程というものでした。
確かに薬物の使用は法的には禁忌ですが、それに頼らざるを得ない孤独感は寂しさなどを話題にしないと、本当の意味での回復にはつながらないといいます。
つまり、使用したら罰則という法的な恐怖統治だけでは、回復にはつながらないということなのです。
そのため、芦澤先生は、患者さんとだけでなく、スタッフ同士でも感情的なやり取りができるよう、日々心掛けているとのことでした。
自分の気持ちを話すことに慣れていない人間からすると、気恥ずかしいだけでなく、拒絶される恐怖を内包しているものです。
けれども、気持ちを話すことで、自分が本当に何に苦しんでいるのかを初めて理解することにつながったりします。
やはり、気持ちを話すことが、どの治療でも重要なのでしょう。
そして、その語りが有効となるためにも、聞き手の心構えが重要なのだと思います。
これは、これからも続く私の永遠の課題なのだと感じました。

今年、一年、当院の診療方法を巡り、患者さんには色々ご負担をかけることとなりましたが、多くの皆さんにご協力いただきありがとうございました。
また季節の変り方が激しく、皆さんにとっても大変な一年であったと思います。
その意味では、体の健康が心の健康に繋がることを再認識させられた一年でもありました。
やはり、来年もこの徒然を通して、皆さんの健康を振り返る一助にしていこうと考えています。

最後に、今年も多くの出会いと別れがありました。
別れは辛いことではありますが、最近、別れの痛みを埋めようと過去に固執することが、一番回復を阻むとも感じています。
やはり、過去に対し、後悔はあってもそこで立ち止まってはいけないのだと思います。
我々は、「たら・れば」にとらわれず、「とりあえず」前にすすむ体験が重要なのだと思います。
そういえば、ケロちゃんはどこにいったのだろう?と、徒然を書きながらふと思い返しました。
仮に天寿を全うしていたとしても、彼は私に「俺はお前の庭の土に帰っただけだ。めそめそするな。
また土を耕して、俺の分身になるであろう植物を育てろ」などと言うでしょう。
彼の魂はやはり土に宿るのだと思います。

今年も大変お世話になりました。よいお年を。

樋之口潤一郎

今年の最後に
(淡水魚ばかりを取り扱っている某水族館のヒキガエル達)

令和5年12月19日 社会に出ること

皆さん、こんにちは。
12月に学会があり徒然の更新が遅くなってしまいました。
寒暖差の激しい一年ですが、本当に我々の心身にその厳しさが突き刺さってきますね。
先日の温暖な一日がある分、今日の厳しさが身に応えてしまいました。

私達はある時から社会人とはこうあるべきだという考えを叩き込まれてきました。
勿論、人としての礼儀、作法を学ぶ上では、こういった教育は間違いではありません。
ただ、これだけ多様性が叫ばれている割には、社会に出るイメージは画一的で、多様性とは程遠いように思えてなりません。
恐らく、我々が社会に出るイメージとは、学校を卒業し、就職し、家庭を持ち、汗水流しながら仕事に精を出すといったところではないでしょうか?
けれども、このイメージは昭和から平成初期の社会人像にほかなら無いと思います。

色々な患者さんを調布の地で診るようになり、最近気付かされたのは、社会人像のイメージが狭いがゆえに、患者さんがそのイメージに添えず苦しんでいるという事実でした。
そうだとすると、我々はこの社会人像から卒業し、それぞれの道を模索していって良いように思います。
最近、私は社会に生きるとは、標準的と言われる人物になることではなく、波長が合うニッチなところを見つ出し、生き抜くことにあるのではないかと考えるようになりました。
これは仕事であっても、趣味でもどちらでも構いません。
そのためには、興味のあること、好きなことを大切にする姿勢が、必要なのだと思います。
そして、我々が標準的と言われる社会に対応するとは、社会が求める人間像に魂を売ることではなく、割り切って合わせるということなのだと思います。
そのためには、割り切る上でのテクニックは学ぶ価値があると思います。
それは、人間関係を上手く運ばせることではなく、最低限のやり取りで凌ぐ術なのだでしょう。
一口には簡単ではありませんが、再考の価値のあることだと思います。

追伸
先日の学会で、私が研修医時代にお世話になった指導医の先生と、私の後輩とでの写真です。
先生は、破滅的に出来の悪い研修医であったと今でも言われます(苦笑)。
詳細は恥ずかしくて言えませんが、こんな私に本当に根気よく付き合い、育ててくれたと思います。
そんな自分が、今は出来の良い後輩を育てている今日この頃です。
とても不思議な感覚です。

樋之口潤一郎

社会に出ること

令和5年10月30日 緩めることの重要性

10月に入り、突然の寒さで身を凍えさせた方も多かったのではないでしょうか?
当院の患者さんを診る限りだと、冷えを強め、倦怠感や憂鬱な気分を呈した方が多く認められました。やはり、体の冷えは心の冷えに通じていたのかもしれません。皆さん、是非お体お大事にしていください。

ここ数日は多少、本来の秋を取り戻したように感じます。私は、朝の空気に緊張感と快適さが同居するこの季節がとても好きです。数十年前とかなり遡りますが、医学部の学生時代、勉強に疲れ嫌気がさすと、私は通勤途中の池袋で有楽町線に乗らずに、大学を休むことがたまにありました。行く当ては特に決めていないのですが、大体、池袋から新大塚、そして茗荷谷まで歩き、当時あった茗荷谷図書館あたりで、ゆったり過ごすことが定番でした。終点は決まって本郷三丁目の喫茶店でした。大学をサボタージュした秋口のある朝、新大塚辺りを通った際、建築現場から金属をたたく音や木材店からの木の匂いが、私の心を清々しくさせたものです。当時、学校をサボることに後ろめたさはありましたが、このサボりは、私に心のゆとりを与えるリセットであったと感じています。それだけ、医学部の勉強は私にとって気の重い作業で、常に心を緊張させていたのだと思います。

今でこそ、会社や教育の世界は、表立って安易な根性論で「がんばれ」とは言わなくなりましたが、生産性を上げるために、実際のところ、世の中は頑張ることを無意識に、我々に強いているように思えてなりません。我々は四六時中、テンションを高く維持し、何らかのパフォーマンスを発揮することを常に求められているのだと思います。けれども、テンションを高く維持し、拳を上げながらずっと頑張るなど出来るはずもないのが、人間の自然な性なのでしょう。そうだとすると、現代社会を生きる上で大切なのは、テンションを上げやる気を見せることではなく、テンションを緩め、心静かな時間を見つけだすことにあるのだと思います。その際、我々は心ではなく、体を緩めることに注力するとよいと思います。体の緊張の緩和が必ず、心のそれに通じるからです。そして、その方が分かりやすくて着手しやすいからです。是非、皆さん、意識してみてください。

今年ももう残すところあと二か月になってしまいました。先日見つけた小さなヒキガエルはあれから姿を見せません。もう少しで彼らにも冬眠の季節がやってきます。彼らにとって、冬眠は寒さから身を守るための策なのか、それとも、夏場テンションを上げ活動した心身を緩める場なのか、それは聞いてみないとわかりません。でも少なくとも彼らが次の年の活動を再開する上で、冬眠は不可避でしょうから、せめてテンションを緩め、思いっきり寝込んでほしいと思います。

ではまた 樋之口潤一郎

令和5年9月25日 不快を無くすより、快適なものを増やすこと

皆さん、こんにちは。

酷暑が去った後、やってきたのは快適な秋晴れではなく、不快極まりない梅雨のような天気でした。天気は人智を超えた自然そのものであるため、我々は過酷であろうと受け入れなければなりません。真夏は、クーラーをかけ続けることで、ひたすら避暑に徹したわけですが、これは、戦時下に防空壕に籠もることを強いられたようなものです。そうだとしたら、慢性的なストレスに我々は数ヶ月も晒されていたことになります。8月下旬から、うつや不安、そして倦怠感を訴える患者さんが多くなったのも、少なからず天候の過酷さが影響しているのではないかと思います。

そんな過酷な状況に対し、人類は常に不快な状況を克服し、排除することにエネルギーを使ってきたのだと思います。恐らく、科学は、その不快な産物を軽減する目的で発展してきたのでしょう。感染症を例にすれば、抗生物質を駆使し、細菌の根絶を目指してきました。しかし、最近、私は不快を排除するだけでは決して幸福には繋がらないことを実感しています。やはり、日頃から我々は、快適な生活を模索し、耕し続けていく努力が不可欠なのでしょう。快適な生活の模索などといっても難しく考える必要はありません。楽をするために横になるのも良いでしょうし、生き物とふれあうのも良いでしょう。我々が心地よい、気持ちよいと感じる取り組みを増やしていく心がけが重要なのだと思います。そして、これが、不快なものを中和する秘策でもあると考えています。発想を変えて、不快の排除から、快適の醸成に是非舵を切ってみてください。新たな展開が絶対あると思います。

そんな矢先、雨の日に一匹のヒキガエルが庭先に出没しました。でも、まだ体は小さく、赤い斑点もありません。残念ながら、ケロちゃんではありませんでした。新たな来訪者が、自宅の庭を快適だと感じ来たのかは分かりませんが、少なくとも、ここに居座るのを期待して様子を見守ろうと思います。そして、ケロちゃんはどこにいったのだろう。天寿を全うしたのなら、この庭を快適であったと思って欲しいし、仮に新天地を求め、移動したら快適を求め旅にでたことを期待したいと思います。

樋之口潤一郎

ヒキガエルヒキガエル

令和5年8月21日 子どもの想像力について

夜に泣くコオロギの音が、徐々に秋の訪れを知らせるようになりました。少しずつ日が陰るのが早くなる中で、近所のお祭りの賑わいが、夏の終焉を伝えています。でも心の寂しさに反比例するかの如く、コンクリートから向けられる灼熱は厳しさを増すばかりです。異常気象は我々から四季に感じるべき何かを奪い取ろうとしています。

今回、お盆休みに昨年行ったとある高原に再び訪れました。昨年ほど鹿の大群には出くわしませんでしたが、やはり、多くの生き物と触れることが出来ました。以前にもこの徒然で書きましたが、横須賀での原体験があったせいか、私は今でも生き物に対し強い関心があります。小学生時代を振り返ると、私は、田んぼに鎮座する大きなトノサマガエルの背筋に映し出された、何とも言えぬ緑鮮やかな色に魅了されたものです。それも、彼らは私にいつも「捕まえられるのなら捕まえてみろ」と喧嘩を売っているようでした。その田んぼで一番大きなトノサマガエルを捕まえようといつも網を持参していましたが、最後はカエルになりきった素手で、10センチ近いトノサマガエルを仕留め、自宅に持ち帰ったものです。

そんなことを思い出していると、ふと小学校時代に見えたカエルと大人の目から見たカエルでは、同じものでも、大きな差異があるように思いました。そこで、当時見えたカエルの像と、今見えるカエルの像を書き比べてみました。当時は緑色の背筋が、絵のように説得力を持って心に刺さってきたのです。それも一種類の緑ではなく、何種類もの緑が。でも大人の目にはそこまで緑色は刺さってきません。この違いは何なのでしょう?

私は再認識したのですが、子どもは感性で物事を捕らえますが、大人は既存の知識で物事を捉えるのだと思います。だから同じ物でも見え方が違うし、違ってよいのです。当時、トノサマガエルを捕まえ、母親にその報告をしようとしましたが、イメージ先行の少年は母親に上手く説明することが出来ません。それに語彙力もありません。ただただ、鼻息荒く、「あのね、あのね、すごい緑色の大ガエルを、がぼっと捕まえた、それも捕まえたら僕の両手から緑色が飛び出るの!」などと。これに対し、母は、「これ普通のトノサマガエルなじゃない。何か薄気味悪いし、夜ゲコゲコ泣くから、早く田んぼに戻しなさい、もし飼うのだったら何の虫を食べるのかをよく調べなさい」と冷静に語っていました。この時、少年は母の言葉に寂しさを感じました。大人であった母は、知識で物事を捉えようとしたので、私の想像力を意味不明と捉えたのでしょう。今となってみればそう捉えるのも致し方なかったのだと分かりますが・・・・。

そうだとすると、我々は子どもに対し、知識で物事を判断する前に、どう感じたのかということを大切にすべきなのでしょう。ついつい、私たちは、想像力より言葉や知識の方が優位と捉え、語りきれない想像力を断罪しがちですが、実は、想像力に言葉を与えていくのが、大人の役割なのかもしれません。ただ、大人は大人で過酷な社会を生き抜き疲憊しているのですから、想像力に言葉を付与するだけのゆとりが無いのだと思います。だからせめて、分からないからまず耳を傾けてみる、ここからスタートすることを心がけることが重要なのだと思います。

樋之口潤一郎

殿様ガエル

令和5年8月1日 感情のとらえ方を振り返る

暑いですね。この酷暑の中、当院にわざわざ足を運んで頂きありがとうございます。厳しい日照りが、今年は特に緑の色に疲れの色を与えているように思います。今日空を見たら、たまたま鱗雲が一面に広がっていました。やはり、酷暑の中にも秋の気配が漂い始めているのだと想います。そして何故か、高校野球の季節になると、風鈴の音と共に、白昼どこかの軒先から聞こえる放映の音を聞くにつけ、何ともいえぬ寂しさに駆られることがあります。これもまた秋の訪れを知らせる頼りなのでしょう。

さて、我々、人間はあらためて感情の生き物なのだと思います。我々は日常生活を通じて、常に喜怒哀楽、不安、寂しさなど様々な感情を否応なしに体験します。それは、人間として生を受けた宿命なのだと思います。そうだとすると、私たちの心身から感情を取り除いて生きることは不可能なのです。でも、我々は不安や恐怖、悲しみなどを感じると、何故か拙速に解決を急ぎ、その感情を打ち消そうと躍起になります。消せないと分かっていながら、何故そこまで躍起になるのでしょうか? そんな疑問を診療中考えた時に、私は最近、我々が感情に優劣を付けているからだとの結論に至りました。特に自分に自信がない人の場合、「私は駄目な人間だ」と自己否定を抱くことになります。この自己否定が我々に優劣へのこだわりを作り出し、不快な感情への蔑視の目を強めるのだと思います。 ということは、不安になった際、不安という感情を無くすことではなく、不安に対する否定的な見方を見直すことが治療なのだと、感じています。自己否定が強い時は、「何故上手く行かないのだ」などとWhyで物事を捉えがちですが、本当は「どうやったら、少しでもましな状態になるか」とHowで捉え、具体的な対策を考えていくことが、否定的な見方を解く上で重要になるのだと思います。そのためには不快な感情に駆られた時は、必ず一呼吸置き、すぐに拙速な行動を起こさないことがまず肝心です。そして、「しっかりしろ」と言い聞かせ自分に発破を掛けるのではなく、慎重に対処可能な行動を取る事を心がけるようにしましょう。この行動を意識することで、すぐに自己否定が取れる訳ではありません。それには年余の取り組みが不可欠です。けれども、自分なりの対処行動が可能になると、次第に「私なりに取り組めている」という実感が醸成されてくることになります。そして、この感覚こそが、自己肯定感であり、自己否定を本当の意味で中和するものなのだと思います。

5月に更新して以降、我が家にケロちゃんが顔を見せておりません。もしかすると生を受けて数年経ちましたから寿命を迎えているのかもしれないと案じています。ケロちゃんは私にとって擬人化の対象ですが、やはり、彼にも人間とは異なる感覚であっても感情に近いものを持っているのではないかと思います。彼が、自分の感覚を大切にし、この酷暑から身を守り、生き抜いていることを心から願っています。

樋之口潤一郎

厳しい日照り

令和5年6月30日 私の父子関係から思うこと

皆さん、こんにちは。ゲリラ豪雨と炎天下が入り混じる最近の天候に、夏バテしそうですね。 暑くなると、我々は水分を欲しますが、水分だけだと体が冷え、浮腫みがちになります。活力の一つとして塩分の摂取も心がけてください。特にナトリウムだけだと血圧を上げるため、マグネシウムなどが混ざった天然の塩が良いと言われています。特に苦汁はマグネシウムを多く含み、そのマグネシウムが血圧を安定させると言われています。皆さんも是非試してみてください。

さて、私の過去を少し振り返ってみました。私の父はある企業の会社員でした。ただ日本の高度経済成長を支えた企業戦士で、日本の発展のために全身全霊を会社に捧げた人間でした。また第二次世界大戦の終戦を満州で迎え、ロシアが攻め入る状況の中を着の身着のまま日本に引き揚げた一人でもありました。そのため、私のような高度経済成長の中で育った人間に対して、「甘えている」などと多少厳しい目で見ていた節があったように思います。特に父は、私が挫折したと嘆いていると、「それ位を挫折というな」などとその嘆きを一蹴しました。優しいところもありましたが、怒ると怖く逆らえない雰囲気がありました。今になってみると、父は家庭を思い、不器用なりに頑張って来たのだと思いますが、当時の私から見れば、古い価値観を当てはめ「あれは駄目、これは駄目、しっかりしろ」と言われているように感じていました。そのため、内心反発心を抱いていたのです。

最近、患者さんと関わる中で気づいたことですが、親が「あれも、これも駄目、何故できないの」と言うときは、決まって子供の動きを制することに手一杯になっている証なのだと思います。ただ、私はこのような親の姿を頭ごなしに全て悪いとは思っていません。親も苦労してきたのだから、子供に同じ苦労をさせたくなかった、それ故、駄目という言葉を連呼するのだと思います。ただ、子供の立場からすれば、駄目と制されれば、「じゃあどうしろと言うのだ」と文句を言いたくなるのも自然なことだと思います。この状況に対して、当時の私は、親から否定ではなく、肯定的な示唆を貰いたかったのだと思います。それも、「こうするとよい、試してみろ、失敗しても良いから」などと具体的に。これは親子という立場の違いから生じる、よくある齟齬でしょうが、親子であるが故の永遠のテーマとも言えるでしょう。でも子供を制するではなく、子供の可能性を生かすという視点を盛り込むだけで、違った視点が見えてきます。やはり我慢させるだけでは、人は伸びないのだと思います。その際、良い点を一つ上げ、「~すると良い」と分かり易い助言をすると、子供はきっと喜ぶと思います。これは、親子関係に限らず、どの人間関係にも普遍的なことなのだと思います。 皆さんの身の回りの起こる人間関係を少し振り返る機会にしていただければと思います。

さて昨年の夏ですが、神奈川県の葉山にある、とある源流に行きました。その目的は絶滅危惧種であるナミハンミョウという虫を採るためです。ナミハンミョウはカラフルな迷彩色の虫で、世界で指折りに美しい虫だと思います。虫を採る時は、無心で網を振っていました。以前の徒然で書いた自分の幼少期の再現です。探索、3時間で漸くメスのナミハンミョウに出会いました。最後はキャッチ&リリースで空に返しましたが、嬉しい出会いでした。今となっては難しいことですが、改めて私は、父親にこういう無心になれる姿を褒めて欲しかったのだと思います。

皆さん、夏の時期、体調にはご自愛ください。

樋之口潤一郎

ナミハンミョウ

令和5年5月30日 自分の感じた違和感を大切にしよう。

患者さん皆さん、こんにちは。世の中は、梅雨入りのようですね。

いつもより緑の勢いが強く、かつ深い色合いを醸し出しています。ただ五月晴れを垣間見る機会がほとんどなく、清々しい気分になれなかったのはとても残念でした。最近は、寒暖差、気圧変化の著しさゆえに、自律神経を崩す患者さんが、昨年の数倍多いと感じています。
以前も申し上げたように、気象であれ、変化は我々の心身に大きな負担を与えるのだと思います。

私は、患者さんと接して、色々気づかされることが少なくありません。
患者さんは治療の経過で、よく、「このままでよいのか?」「相手の言っていることはわかるが靄っとする」などの言葉を診察で発することがあります。それは不信や困惑などの違和感で語られる訳ですが、この違和感は、回復の上でとても重要と感じています。というのも、このことが、周りの生き方と自分の生き方が異なるという感覚を物語ってからに他ならないからです。つまり、自分という主語で患者さんが生き始めたのだと思います。主治医である私は、おそらく患者さんに言葉にならない違和感に、言葉を与え整理する役割なのでしょう。しかし、このことはそう簡単ではなく、私自身も勉強の日々と感じています。

さて、先日、庭を除いていたら、何かうごめくものがおりました。
よく見たら、土にまみれた、ケロちゃんが明かりの中にたたずんでおりました。写真では、土と同化しているため、わかりにくいですが、確かにケロちゃんがいます。今年も彼は生き抜いたです。思わず、うれしくなってしまいました。彼は、「ただ寝ていただけ」と泰然自若に言いそうですが、身を粉にして、生き抜いたことに変わりありません。私は、庭にあるダンゴムシを10匹ほど取りまくり、彼に与えたのですが、すべてペロッと食べていました。こちらを向き、「もっとうまいものよこせ」と語っているように見え、そのふてぶてしさが、またほほえましく思いました。

やはり動物であれ、植物であれ、生き物は私に癒しを与えてくれるのだと思います。

樋之口潤一郎

ケロちゃん

令和5年4月26日 私の失敗・・・当たり前だと油断しないこと

皆さん、こんにちは。

昨日、クリニックから家路に向かう最中、一瞬マスクを外し、外の空気を思いっきり吸ってみました。4月の空気とは思えぬ湿度が高さで、梅雨の前触れにすら感じられました。それを一番察しているのは庭の植物たちで、6月に咲く紫蘭が一斉に咲き始めました。緑生い茂ることは嬉しいですが、徐々に変化する味わいや風情が日本から失われるのは、本当に寂しいものです。

さて、先日、皆さんに予告した件です。以前、私は二匹のイモリを買い始めたことを、この徒然でお伝えしました。しかし、一月前、私の失態により、雌の「りっちゃん」がケースから脱走し、行方不明になってしまいました。どうも家の飼い猫に食べられたようです。この日は余りのショックで、翌日皆さんの診療があるにもかかわらず、午前二時まで自宅を捜索していました。翌日、翌々日、私は猫の糞を割り橋でかき分け、「りっちゃん」の遺体を捜しましたが、結局見つからずじまいでした。

この事故は私の油断であったと思っています。日頃、飼育ガラスの天井の窓を開けて餌を与えるのですが、飼育ケースの壁が高いため「窓を開けても逃げないだろう」と高をくくり一瞬、目を離してしまったのです。しかし、後で知ったことですが、イモリは脱走の名人で、このような事故は飼育の際、一番飼い主が心しなくてはならないことのようです。大丈夫だという油断が、実は最大の危機であることを思い知らされました。

やはり、当たり前という感覚は、我々に永遠に続くような印象を与えますが、それは、「このようなことはいつものことだ」「さした問題ではない」などの思いから来る、我々の奢りなのだと思います。今回のことに限らず、幾つかの出来事から私は深く感じるに至りました。体の健康、日々の人間関係など生活を取り巻く様相は、本当は当たり前でなく、偶然に支えられたご縁の連続によって形作られているのでしょう。だからこそ、今日をないがしろにしない心がけが、我々が生きていく上で重要なのだと思います。是非、皆さんの当たり前を今一度見直していただければと思います。

ところで、失った寂しさはもちろんのこと、つがいを失った「いっちゃん」を思うと、やはりもう一匹呼び寄せようということになりました。本来であれば、神奈川の清流、千葉の奥地まで出向き捕獲したいところですが、今回は時間がないため、楽天市場で購入することにしました。そうしたら、雌二匹のセットでしか販売されていないことを知り、今回はこれもご縁と思い、千葉県館山生まれの二匹を引き取ることにしました。雌の一匹は大きく、もう一匹は小ぶりでした。そのため、大きい方を「モリちゃん」、小さい方を「コモリちゃん」と名付け、「いっちゃん」と一緒に住むこととなりました。そして、「りっちゃん」の分まで世話をすること心の中で誓い、今日の徒然に至っています。

樋之口潤一郎

花
紫蘭になります。雑草魂でどんな荒れ地でも咲く花です。

令和5年3月27日 症状が教えてくれるもの

皆さん、こんにちは。

皆さん、こんにちは。春真っ只中ですが、先日の大雨を見ると、春を通り過ごして梅雨に 入ったようにすら見受けました。来年度もまた極端な天気になるやも知れません。過酷な環境は社会だけでなく、気候にまで及んでいるとしたら、我々は希に見る厳しい世界に生きているのだと思います。

さて、患者さんごとに症状は当然異なりますが、症状と言うのですから、患者さんにとってはとても辛いものであることに変わりはありません。この症状に対する私の捉え方は30代~40代の頃と比べ変わってきたと思います。当時は慈恵医大に所属し、最先端の医療を提供することが使命と思い頑張っていました。この時、私は、患者さんが味わう症状は悪いものという発想が根底にありました。だから、最新の科学知見に基づく薬剤の投与が是であると捉えていました。勿論、その考え方全てが間違ってはいませんでしたが、そのことだけで患者さんの生活が大きく変化する訳ではありません。薬物は楽にするが、決して全ての人の幸せを保証するものではないと、経験年数を深める中で、理解するようになってきたのです。
全ての病で言明するのは勿論難しいですが、少なくとも症状の出現や増悪は、心や身体の状況が環境に対して悲鳴を上げている結果なのだと思っています。だから我々は症状をいけないものと断罪するのではなく、むしろ耳を傾けなくてはいけないのだと思います。そうだとすると症状の背景にある生活の送り方などに目を向けることがとても大切です。意外に症状出現以前から自身に過度な無理を強いているかもしれません。特に体力に自信があった方などは、知らず知らず無理を承知であらゆることを引き受け、自分を追い込んでいた可能性があります。そうだとすると、生活や体調という基本的な部分から自分を見直すことが重要です。潤クリ便りの中で、当院の職員が作成した健康法を是非ご参考ください。皆さんの生活を回復させるヒントがあります。体調の回復が生活力を向上させることが、実は心の回復であることを、ここで再認識していただければと思います。

昨年、6月に掲載した立葵という花の根元部分がまた近隣の線路脇で見られるようになりました。季節に負けずに真っ直ぐに伸びる立葵は何を健康のよりどころにしているのでしょうか? 今度聞いてみたいものですね。

次回は私の失態というタイトルで皆さんの前に登場する予定です。

樋之口潤一郎

令和5年3月1日 調和について

皆さん、こんにちは。

いつも当院の外来運営などについて、ご理解とご協力を頂き誠にありがとうございます。
先般からお話しています外来システムの変更等で
通院患者さんにご負担をおかけしておりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

突然、4月中旬の陽気になってしまいました。本来なら喜ぶべき頃合いですが、季節を度外視した気温上昇と花粉飛散量の増加は、我々の体を重くさせ、気鬱を作り出す要因になっています。
やはり、どんなことでも急な変化は、我々に大きなストレスを与えるのだと思います。

さて、晴天が続くある日に、以前に作ったサングラスをたまたま使う機会がありました。サングラスをかけた際、私は、木々の緑がいつも以上に深く見えるように感じました。
それは、あたかも少年時代、自然の木々が色鮮やかに視界に差し込んでくる体験を彷彿とさせるものでした。
恐らく、サングラスが黒の色調を強調することで、物に明暗のコントラストを鮮明に与えているからだと思います。
でも、サングラスを外すと、確かに明るいのですが、明るいだけで、妙に無機的な感じにも見えてしまうのです。

一般的に「暗い」という言葉は、我々にあたかも駄目で劣っているかのような印象を与えてしまいます。でも本当に駄目なのでしょうか?
我々はいつも善し悪し、優劣などの二項対立で物事を判断するように教わってきました。
明朗は良く、陰鬱は良くないなどとのように。明るく、快活に取り組もうなどと示唆されながら、世の中に適応するように躾けられてきたのだと思います。

でも、暗い部分があることで、物事に奥行きが与えられ、我々は物事を深く感じ取ることが出来るのだと思います。暗い部分が実は、明るさに輪郭を与え、味わいを引き立てている、残念ながら、この事実を我々は教わる機会に恵まれていなかったです。

このことを考えるにつけ、「頑張ることは良くて、休むことが悪である」などと、一方の価値観だけを尊ぶ風潮は、我々を悪戯に心理的に追い詰めるのではないかと危惧しています。
休息があるから、生き生きと頑張ることが出来るのであって、休息のない頑張りは徒労以外の何者でもありません。
そういう観点からみれば、生活は濃淡、緩急などすべてバランス、調和から成り立っているのだと思います。
そして我々の健康は、この自然調和を無視することに端を発しているのでしょう。
最近、イモリを飼うようになり、彼らのゆったりとした動きにホッとする感覚を覚えるのも、私が日々何かめまぐるしい物に忙殺されているからなのかもしれません。
だから、私にとってイモリは私の心に大切な調和をもたらしているのだと思います。不思議ですが、イモリは私をほっこりさせるのです。

3月は木の芽吹き時、変化に見舞われ、調和を乱しがちな季節でもあります。
心が沸き立つときこそ、睡眠という調和を忘れませんように。

樋之口潤一郎

令和5年2月7日 自身の幼少時代から感じたこと

今回の話題に触れる前に、外来運営の変更などで患者さんには、多少なりとも戸惑いを与えたのではないかと感じております。そのため、不安に感じた方も少なくないと思います。ただし、私自身は、今までと変わらず、限られた中でも、勿論皆さんの生活の回復を模索していきたいと考えています。特に、症状の消失もさることながら、皆さんの健康についての示唆を吟味していくつもりです。皆さん、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

さて、昨日、庭の一角にタンポポが静かに咲いているのを発見しました。誰よりも早く春の息吹を感じたのでしょうか、「一番先に春を見つけた!!」と言わんばかりに誇らしげに咲いていました。先日はオオイヌノフグリにも出会いました。原体験を与えてくれた横須賀の地で、この花を良く見かけました。当時、背丈1メートルほどの少年から見ると、この花が大きくとても鮮やかに映ったのです。そして、少年は世の中の奥行を、植物の風になびく姿や、生き物の鳴き声から感じ取っていきました。そして、この奥行きを知ることで、徐々に五感を育むだけでなく、色々なものに興味を寄せていきました。無邪気に草花や虫を取ることに明け暮れていったのです。虫を取っている時、私は自分が仮面ライダーやウルトラマンになったつもりで網を振り回していました。一人で「エイヤー、トー!!」などとつぶやいて。でもそれが楽しかったのです。

タンポポ

しかし、最近は仕事でパソコンを多く見るせいなのか、はたまた自然に触れる機会が減ったせいなのか、風景を平板に感じることが多くなりました。我々は電子機器に囲まれた生活の中で、幼少に養われた五感や物事の奥深さに対する感受性が鈍麻してしまったのでしょう。その意味では、文明が極限まで発展した世の中だからこそ、自然に触れることが重要なのだと改めて感じています。目と耳だけでなく、匂いや触覚、時には味覚さえも動員して、春の息吹を感じてみる、これが、我々本来の感じを高めてくれるのではないかと考えています。

さて、樋之口家に新しい仲間が1月初旬にやってきました。雄と雌の二匹のイモリになります。イモリを初めて見たのは、神が宿ると言われる山形県の月山の沼地でした。確か私が8歳だったと思います。ぷかぷか気持ちよさそうに浮遊する生き物に、「沼にトカゲ!!」と叫んだのですが、従兄弟から「あれイモリだ」と教えられました。あれから、約40数年、「いつかはイモリを飼ってみたい」と心の中で密かに思っていました。実は、昨年夏にイモリを取りに相模川沿いの田んぼや用水路に出向いたのですが、見つけることができませんでした。そんな矢先、ネット広告であるペットショップに、イモリ18匹大量入荷という文字を見てしまいました。見るや否や、「やめて~~」と叫ぶ妻を説得し、隣県まで車を出し、二匹購入することになりました。これもご縁なのでしょう。名前は、オスがイモリのイから「いっちゃん」に、メスはイモリのリから「りっちゃん」となりました。これから、潤クリニックをケロちゃんと一緒に見守ってくれるのではないかと願っています。イモリは丁寧に飼育すると20年近く生きると言います。今後ともよろしくお願いします。

イモリ

樋之口潤一郎

令和5年1月16日 主語の大切さ

少し、遅くなりましたが、患者さん皆さん、あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

昨日からの久しぶりの雨で、コンクリートに染み入った水滴の匂いを久しぶりに感じました。この匂いは、私を何故か懐かしい感覚にさせます。小学時代、真夏の横須賀で昆虫採集に耽っていた時、突然夕立に見舞われることがよくありました。大粒の雨が灼熱のコンクリートに喧嘩を売っているようにぶつかり、埃と水滴が宙に舞った、あの時と同じ匂いです。当時、雷にビクビクしながら、虫かごと網を握りしめ、びしょ濡れになりながら必死に帰った訳ですが、到着する頃には、青空の隙間から、入道雲が「どうだ!」と言わんばかりに立ちはだかっていました。少年の背丈が飲み込まれそうな位、力強い入道雲だった記憶があります。そして、蜩(ひぐらし)に変わった音が、夕刻を自然と教えてくれたものです。今年の夏にも、そんな入道雲を見たいものです。

さて、先日、ある学会で、英語でスピーチする機会がありました。数分の短い内容でしたが、英語が苦手極まりない私は、発表原稿を、Google先生の英訳機に一任してしまいました。
今の翻訳は10年前と比べると格段に優秀で、滅茶苦茶な翻訳で我々を困惑させることが本当に少なくなりました。けれども、主語だけは明確に日本語で表現しないと、意図した内容が上手く英訳されないことを、今回の機会で再発見しました。そして、このことは、とても大切で、会話の基本が主語で形作られているといっても過言ではないのだと思います。

我々は自信が無いとき、「私は」などという主語を消去して、言葉の所在を曖昧にしがちです。傷つくことを恐れ、自分の考えに責任を持つことを回避してしまうのだと思います。これは、我々が良く陥りがちなことですが、この曖昧な会話が得てして誤解を生み、人間関係を難しくさせてしまうように感じます。人間関係に正解などありませんし、もめる時はもめるのが人間関係というものですが、少なくとも自分の思いに、主語をつけて明確にすることは、他者との関係を最悪にしない秘訣なのだと思います。皆さんの日常生活でも、是非心がけてみてください。

公園の梅の木に、淡い桃色の花が咲いていました。植物はいつも凜として、その姿を我々に見せてくれます。梅はきっと自分の感じに従い、自然に花を咲かせている、だから美しいのでしょう。そういう意味では、梅にも「私は春の息吹を感じたから、花を咲かせてみた」とまではいかないまでも、主語があるのだと思います。

次回は、我が家に来た新たな生き物をご紹介する予定です。私らしい生き物です。ではまた。

花

樋之口潤一郎

令和4年12月28日 縁というもの

皆さん、あっという間に年の瀬となりました。今年は例年以上に時間の過ぎ方が早いように感じました。
コロナ禍で単調な生活を強いられたせいかもしれません。

最近、私はご縁というものを考えることが増えました。不思議なもので、潤クリニックも色々な縁によって支えられています。
考えてみれば、当院の開設の話が動き出したのが、平成30年5月頃でした。当初、私は調布の仙川か、小田急線の祖師ヶ谷大蔵あたりでの開院を考えていました。しかし、なかなかよい物件に巡り会うことができず、物件探しに行き詰まってしまいました。その中で、今回の布田の物件に出会ったわけです。
当初は布田駅周辺が今以上に寂しくて、何か心許ない感じがしたのですが、間取りが良かったことと、なんと言っても明るいことなどが決め手となりました。この決断を後押ししてくれた人々にも恵まれました。現在はこの物件なしに当院の存在はありえないとすら感じています。そして、スタッフとの出会いもご縁でした。詳細は省きますが、このご縁も幾つかの偶然が重なったものでした。
スタッフ皆さんの存在は物件のご縁以上に大切なもので、このご縁が当院の雰囲気を作っているといっても過言ではありません。

それと同時に、縁とは出会いと別れの中で、ついたり離れたりするものだとも実感するようになりました。
別れることは寂しいことですし、致し方ないのですが、けれどもこれこそが人生なのだと思っています。そして、今までの徒然でも お話ししたように、別れは次のスタートを切る大切なアクセントであるとも認識しました。このときある映画で言っていた「not running from, but running to」というフレーズを思いだします。訳すと何かから「逃げるのではない、何かに向かって進むのだ」という意味のようです。そうだとすると、どんな縁の形にも意味があり、その瞬間を 大切にすべきだと考えるようになりました。

今年1年、大変な中当院に通院頂き誠にありがとうございました。
それぞれのご苦労があったと思いますが、来年も引き続き限られた診療時間だからこそ大切なやり取りを心がけたいと思います。

来年も引き続きよろしくお願い申し上げます。
お体を是非大切にされてください。
良いお年を

樋之口潤一郎

令和4年12月15日 ワーキングメモリを鍛える(私見)

皆さん、こんにちは。当院におかかりの患者さんには、外来システムの変更などで色々ご負担をおかけしておりますが、何卒ご理解の程よろしくお願いいたします。
また日頃から当院の運営にご協力頂きありがとうございます。

最近、巷でワーキングメモリという言葉を聞いた方もいると思います。

ワーキングメモリとは、作業や動作に必要な情報を一時的に記憶・処理する能力をさしています。
この機能は、日ごろ勉強や家事、そして仕事などにおいて、我々が行動や判断する際に活用されています。
特に、勉強をしながら家事をするなど異なることをやりくりする場合、そして色々言われたことを頭にとどめるなどの場合などに活躍するのです。
そして、当然ですが、ワーキングメモリは加齢と共に縮小していきます。
若いときは暗記などでも苦労がなかったのに、老いてからは些細なことでも記憶するのが苦手になったなどは、まさにワーキングメモリの縮小をを如実に語っています。
そして、もともと、一つのことにこだわるあまり、同時に異なる事案をやりくりすることが苦手な人もいます。
最近言われる発達障害の方はこの点でみれば、他の人よりワーキングメモリーが少ないのだと思います。

ところで、ワーキングメモリーを鍛えるなどという言葉をインターネット上で耳にします。
計算力、暗記力を鍛えることで、ワーキングメモリーを増やそうと試みる訳ですが、本当に増えるのでしょうか?
私自身は少しこのことを差し引いて捉えるようにしています。というのも、ワーキングメモリの大きさはある程度、各個人の脳の特性で決まっていると考えているからです。
これは背の高い人と低い人が、遺伝である程度決まっているのと同じだと思います。
ワーキングメモリーが少ない方にもっと暗記をしろと強いることは、背の低い人に2メートル以上の大男になるため、毎日ジャンプしろと言っているようなものです。
これは当人からしたら非常に辛いことです。

むしろ、ワーキングメモリーは広げるのではなく、メモリーに余裕を持たせることが重要なのだと思います。
そのためには、なんと言っても考えすぎないこと、スマートフォンで情報過多になからないことが重要です。
睡眠や運動など脳の休息を促進させる行為も、ワーキングメモリに余裕を持たせることにつながります。
睡眠が十分取れた翌日は、作業効率が上がったという経験をされた方も多いと思いますが、それこそ、ワーキングメモリに余裕が出来た分、その分の容量が仕事に割り当てられたことになるのです。
やはり、ワーキングメモリーも根性論で何とかするのではなく、体の労りから見直すことが重要なのだと思います。
そして、前回の徒然で記載したように諦めること、捨てることが実はワーキングメモリを食い潰さない秘訣なのです。
何かを捨てないと新しいものは得られません。何かを諦めないと次のスタートはきれません。そのため、捨てる練習をすることが重要なのだと思います。
その意味では断捨離は我々に、ワーキングメモリを維持するための生活の知恵を与えていると考えています。是非試してみてください。

ちなみにこのようにあたかも分かったように書いていますが、私は大の片付けベタで、かつ暗記が大の苦手です。医学部時代に解剖の暗記がだめで、逃げ回っていたことを思い出します。
あの時から自分は詰め込むことに限界を感じていたのでしょうが、詰め込む以外に道はないと無用な根性論に走っていたと思います。
自分もやはり何かを捨てる年齢になってきたのだと思います。

さて、11月21日にケロちゃんがライトの下に佇んでいたため、撮影しました。
物静かに鎮座していましたが、それを最後に、ケロちゃんは寒さのため見かけなくなりました。
ケロちゃんとはしばしお別れになります。来年は会えるだろうか?
今年一年、彼とは言葉こそ交わしませんでしたが、擬人化した友として、潤クリニックに華を添えてくれました。
心を交わす体験とは喜びでもあり、寂しさでもあり、我々に情感を与えてくれるのだと思います。
「またシンミリ考えて!それだからワーキングメモリが減るんだ」などと言うわけありませんが。
そんなやりとりをついて、頭の中でしてしまいました。またあおう、ケロちゃん。

ケロちゃん

令和4年11月15日 諦めることの大切さ

皆さん、大分寒くなりましたね。最近、診察で患者さんから「ケロちゃん頑張れ」など
応援メッセージを頂くことが多くなりました。いつの間にか、潤クリニックのアイドルの様相を呈しています。そんなことを察してか、ここ数日、我が家の庭でケロちゃんを見かけるようになりました。数日前は、ケロちゃんの鎮座する傍の塀に、ヤモリもいたため、それも捕獲し、撮影することにしました。毎度、良い迷惑でしょうが、是非潤クリニックの癒しのために、一肌脱いでほしいと願っています。

人は脳が発達したお蔭で考える力を身に着けました。この事実は、文明の発展に大きく寄与した訳ですが、一方で考え過ぎを招き、我々に苦悩を与えることにもなりました。色々な苦しみがありますが、今回は過去の後悔について触れたいと思います。
ある作家は、「人生の本質は決断に始まり決断に終わる」と述べています。その中で、彼は「後悔のない決断はない」と付け加えています。そうだとすると、人生は後悔の連続であると言えるでしょう。後悔は私たちの心に小さな傷を残すため、どうしても我々は後悔をしない選択を自身に求めがちです。「ああだったら良かったのに、ああすれば良かった」などと「たら・れば」の思考に陥ってしまう訳です。
でも、この「たら・れば」思考は絶対に人を幸せにしません。むしろ過去へのとらわれを強め、決断を先送り、他人に委たりするなどの姿勢を作り出してしまいます。そして、何も物事が進まない事態に苛立ち、やがて自他に対し恨みを募らせてしまうのです。

決断は確かに苦しいものです。けれども、決断をすることで、我々は必ず新しい経験を得ることになります。そして、その経験が次の決断の切掛けとなったり、新たな生きるヒントを与えてくれたりします。
私たちは、考えることで回復するのではなく、何かを経験することで回復する生き物だと思います。
この徒然を読んでいただいている皆さんは、今どのような決断を求められているでしょうか?
決断の成功・失敗という二項対立に価値を置くのではなく、決断した体験が必ず皆さんを豊かにしてくれると、私は信じています。

ちなみに、ケロちゃんは何も考えていないのでしょう。でも無意識に決断しながら前を向いて進んでいるのではないでしょうか?
いやもしかしたら、ケロちゃんも「俺も辛いけど、後ろには跳ねられないから、前に進むまでだ、辛いけどな・・・・・」などと思って跳ねているのかもしれません。
そして、私もケロちゃんを見習って、前に進もうと思っています。

ケロちゃん

令和4年10月17日 自分の「感じ」を大切にする。

急に寒くなってきました。今年は春からずっと不安定で我々をしみじみとさせる季節感が全くありません。これは、気候異常だけでなく、コロナ禍でマスクを強いられていることも少なからず影響があるでしょう。我々の五感の中で臭覚が一番人の感情を揺さぶると言います。マスクは臭覚に対して、目隠しのように覆いかぶさり、我々から大切な感覚を奪っているのでしょう。

さて、冷たい雨が降りしきる日々でしたが、この数日、我が家の庭と駐車場にケロちゃんが出没するようになりました。我が家の小さな庭と駐車場は門で仕切られており、かつケロちゃんが道路に出ないようにと、門下の隙間をレンガで覆っています。でも、何故かケロちゃんは必ず、門下をくぐり抜け駐車場に停めている車の下で発見されることが殆どでした。昔、ケロちゃんの前にケロ1(1番目に家の主になったヒキガエル)と名付けた主がいましたが、残念なことに屋外の道路に不意に出てしまったばかりに、朝方輪禍に遭い亡くなってしまいました。そのことが頭を過るため、いつも気を揉むのですが、ケロちゃんは主人の思いを他所に、我が物顔で、どこからか門下をすり抜け出てしまうのです。写真は捕獲したケロちゃんを撮影したものです。左側の赤の斑点がケロちゃんのトレードマークになります。

ところで、「ケロちゃんは何故車の下にいるのだろう?」と妻に呟いたら、妻は「車の下は暖かいからでしょう」と言っていました。もしかすると暖を取るために本能的に、車の下にいつも佇んでいるのかもしれません。改めて、人間も含め生き物は全て本能で生きているだと、私は感じました。それは、生き物が生き抜き、次の世代に命を繋ぐリレーをするために、身に着けたものなのだと思います。でも、本能という点では、残念ながら人間が一番退化していると感じています。思考こそが最優秀の証で、本能は理性を欠いた代物に過ぎぬという思いが、我々の中に無意識に刻印されているからだと思います。これは、親からの伝承や教育によって植え付けられたものでしょう。でもよくよく考えれば思考も本能も同列であって、優劣は無かったはずです。むしろ思考が優勢の場合だと、知識至上主義に陥り、本来の自身の感覚を否定しがちになってしまいます。そしてここに私たちの苦しみがあるように思います。意外にも本能の前提になる五感などの感じこそが、私たちに生きる方向性を示しているのだと考えます。それこそ、ケロちゃんは「つべこべ言わず、温かいところでホッとしたい、ただそれだけ、それで十分」などと言っているのかもしれません。

ケロちゃんから教わることが少なくないと感じる今日この頃でした。皆さんも是非参考にしてみてください。でも、街頭の明るさに晦まされて道路には行くなよ、ケロちゃん!!

ケロちゃん

令和4年9月29日 眠ることについて

漸く、世の中も、忙しく鳴いていた蝉からコオロギの虫の音に置き換わっていきました。
短い秋の到来なのだと思います。そして、その知らせは金木犀の香りからも知ることができます。

先日、とある講演会に参加し、慈恵医大の大先輩の話を聞いてきました。
その内容で印象的なものがありましたので、ここにお伝えできたらと思います。
それは、寝る努力はできないが、起きることと、日中活動する努力はできると言うものです。
その中で、睡眠欲を食欲と同義と捉え、「食欲がわかないのに、食欲をわかせようと自分に言い聞かせることはしないだろう。睡眠もまさに同じ、眠ろうと言い聞かせて眠るものではない」と話していました。
むしろ言い聞かせれば言い聞かせるほど、自分に緊張をかけ、我々を不眠にさせてしまうのです。
そして、食欲然り、睡眠欲然り、どれも意志の力でコントロールできないことをまず知るべきだとのことでした。

しかし、一方で我々は起きる努力は出来ると、先輩は話していました。
つまり、より良い日中の活動が、最大の睡眠薬であって、それなしに良眠はあり得ない訳です。
その際大切なのは起床時、光に浴びること、そして適度な運動などの行動があらためて重要と言っていました。
巷では、数多くの睡眠指南書が紹介されていますが、日中の活動指南書はあまり目にしません。
我はもう少し日中の活動の重要性を再認識する必要がありそうです。

医療だけではないかもしれませんが、世の中には、コントロール出来ないものをあたかもコントロールし、万全に振る舞えるかのような錯覚を与える情報があふれかえっています。
不安や苦悩についても、悟りのごとくかき消せるかのような書籍が多く軒を連ねます。

しかし、実のところ感情も睡眠や食欲と同様自然現象であり、かき消すことが出来ないものです。
そうだとするとその感情を抱える我々の心の器を整えてく必要があります。
心の器というと抽象的ですが、所謂、心を取り巻く体や生活環境と捉えていただいてよいと思います。
もしそうだとすると、この部分は行動に移せば、コントロールが可能な箇所といえるでしょう。
睡眠が日中の送り方一つで変化するのに対し、不安もまたその送り方次第で捉え方が変わってくるかもしれません。
やはり、我々は今という時をどのように送るかが問われているのだと思います。

樋之口潤一郎

台風一過の夕日

先日台風一過の際、クリニックの近くから取った写真です。
夕日を久々にみて、何か懐かしい気分になりました。

令和4年9月5日 最近の健康法について

最近体をアルカリにするということを、私も実践しています。内容は至って簡単で、お酢を飲むようにしています。ただ家庭用のお酢だとあまりにもまずいので、通販で購入したもろみ酢というものを寝る前に少しだけ頂くようにしています。

我々現代人は運動不足と食生活の偏りから、体が酸性に傾きがちだと言われています。そうすると体の新陳代謝に関与する酵素の活性が低下し、この低下が肥満、高血圧、高血糖などのリスクを高めると言われています。体内に入ると弱アルカリ性に作用するお酢やクエン酸は、恐らく酵素を活性化するため、生活習慣病に陥ることを少なくしているのだと思います。この健康法が本当に自分に合っているのかは、まだ検証段階ですが、いずれこの徒然で報告できたらと思っています。

しかし、お酢を是が非でも取れば良いと言うわけではなさそうです。過量に接種すると口の中を酸性に歯のエナメル質を溶かしたり、胃腸の炎症を助長したりすることがあるようです。また飲むお酢には多量の糖分が含まれるため、油断して飲んでいると高血糖になるとも言われています。

やはり、どんなに良いものでも取り過ぎ、行き過ぎはいけないのだと思います。我々はついつい油断すると、やり過ぎしてしまい、結果的にそのことで生活が行き詰まってしまうものです。それはあたかも、酸性食品の取り過ぎが体の新陳代謝を滞らせバランスを崩すようなことと似ていると思います。何事もバランスが肝腎なのです。

これはあくまで私の体を使った検証実験ですが、ご興味がある方は、適量で試してみてください。
ではまた

院長 樋之口潤一郎

令和4年8月16日 自然の中で生きるということ

皆さん、こんにちは。暑いですね。夏バテなどには引き続きご注意いただければと思います。
さて、私は先日、とある高原に家族と宿泊してきました。そこで野生の鹿と難度も遭遇しました。
鬱蒼とした霧の中に数頭の鹿がいるのが分かると思います。
実は、この地区では最近温暖化も相まって、自然死する鹿の減少から、数が増えているようです。
そこで、皮肉なことに農地が鹿によって荒らされ駆除の対象になっているとのことでした。

この写真を撮った後、せめてお近づきになりたいと、そっと近寄ったのですが、鹿の一群はピーッという高音を発し、逃げてしまいました。
ちなみにこの音をを発すると、当たりでも同じような高音が四方で鳴り響いていました。
恐らく、危険を知らせる合図だったのだと思います。現時点で人間と鹿は危険な者という認識でしか共存できないのでしょう。
でも鹿の危険察知能力はすさまじく、危ないと感じれば咄嗟に逃げ去り、身を守ろうとします。

自然を生き抜くためには、戦うだけでなく、逃げる力を磨くこともまた重要なのだと思います。
我々人間社会では、戦うことが是で、逃げることが非であると教育の中で教わった訳ですが、本当でしょうか?
私は、開業して以降、患者さんと接する中で、どんな時に逃げるべきかなど、
所謂逃げ方を学ぶことが、生きる上で重要と感じるようになりました。
それだけ、患者さんの多くは戦い事に多大なエネルギーを消耗し、逃げ時を忘れてしまったのだ思います。

今回の鹿に感心させられたのは、怖いから逃げたという素直な行動だけでなく、
その恐怖を合図で周囲に知らせ、共有する術でした。これは、鹿の本能から出た行為でしょうが、
人間の私からすれば、周囲を気遣う優しさのように感じてしまいました。
私たち人間の方が最近はコロナ禍でギスギスし、優しさを見失っているのかもしれません。我々は意外に鹿から教わることが多いように思います。

樋之口潤一郎

鹿

鹿、いるの分かりますか? 車で近づき車から妻が必死で撮影しました。
鹿からすれば、謎の鉄の塊がライトと友に近づいたのですから、怖いに決まっています。
でも撮影、ご協力に感謝です。

令和4年8月1日 我が家の主 その2

こんにちは、猛暑到来で体から水分と塩分が一挙に持って行かれてしまいました。
日頃、自律神経の安定の上で、首の項を暖めることを推奨してきましたが、酷暑の場合は適度に冷やすことが、先決なように思います。
日本の夏は日々極端に変化しますから、変化に応じ、暖めるべき冷やすべきかを是非吟味していってください。
ただどちらにしても水分と塩分はこまめにとり、潤いを忘れぬようにしてください。
特に塩分は活力を維持する上で不可欠なミネラルです。是非自愛ください。

さて、先日、我が家の庭にいるヒキガエル、ケロちゃんについてお話ししました。
そのケロちゃんについてお話を追加したいと思います。昨夜、庭にふと目を向けると、玄関先の明かりに吸い寄せられ、トンボが一匹止まっていました。それだけでも珍しい光景ですが、
なんと、その背後20センチにケロちゃんがじっとトンボを眺めていました。
私は、年甲斐もなく、少年のような気持ちになり、ついつい15分ほどその様子を見てしまいました。
結局、トンボはケロちゃんの胃袋に収まってしまうのですが、その間、ケロちゃんは、徳川家康の「泣かぬなら泣くまでまとうホトトギス」を地で行くように、じっと佇み、捕食の好機を狙っているように思いました。

最近、私は外来でよく患者さんに、待つこと、静観することなどを特に強調しています。
それは一時の感情にまかせた拙速な判断は、絶対好機を見落とし、後悔を必ず残すと、日頃のやり取りで強く実感しているからです。
そして、静観した後、好機が来たら躊躇わず決断すること、これも静観と同時に大切な行いだと感じています。
チャンスを自ら手放すことは、自分の可能性を自ら捨てていることに他なりません。
ケロちゃんが、こんな複雑なことを考えているはずもありませんが、
昨日のケロちゃんの勇姿は、そんな日頃の思いを映し出しているようでした。

ケロちゃんも暑さに負けるな

院長 樋之口潤一郎

令和4年7月19日 我が家の主

皆さん、こんにちは。酷暑を超えたら、今度は梅雨へ逆戻りしたような天候ですね。
低気圧は体の水の代謝を悪化させ浮腫を誘発しますから、ここ数日、めまいや頭痛に苦しんでいる患者さんが増えたように思います。
早く向日葵もびっくりするような晴天になって欲しいものです。

さて、今回は今までと趣向を変え、我が家の主を紹介したいと思います。 私は幼少期を神奈川県横須賀市で過ごしました。
当時は近くに沼地などが一杯あって、そこでザリガニやオタマジャクシ、そしてカエルやトカゲなどを捕獲し、一日泥んこになって遊んでいました。
当時、皆で遊ぶというより、一人黙々と網で虫をとり続ける少年だったと思います。
そんな名残なのか、昨年の夏、路上に佇んでいるヒキガエルを捕獲し、自宅でプラスチックのケースで、飼うことになりました。名前はケロちゃんと名付けました。

ケロちゃん
ケロちゃんですが、食欲旺盛で小さな庭で捕獲したダンゴムシを食べるわ食べるわで、みるみる大きくなっていきました。
結局、樋之口家の庭からダンゴムシが消えるという異常事態となり、餌がつきたところで庭に放すことになりました。
けれども多くのカエルは越冬できず、力尽きるようです。恐らく駄目だろうと諦めかけていたら、
先日、ケロちゃんがしれっと庭の草木の中にいるではありませんか!
ちなみにケロちゃんには左側に赤い斑点があるため、すぐ当人だと分かりました。
そこで今回、撮影し、お披露目となりました。ケロちゃんからすれば、良い迷惑ですが、私からするとこの家を守る主ではないかと思っています。
過酷な冬に耐えた彼に、敬意を表し、数年是非この家だけでなく、潤クリニックも守って欲しいと願っています。

院長 樋之口潤一郎

令和4年7月8日

この内容は当院の患者さんと当院の受診を考えておられる皆さんに書いています。

こんにちは、猛暑と多湿の日々が続きますが皆さん、お体はいかがですか?
この度は皆さんに大変ご心配をおかけしましたが、復調し診療を再開させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。

私たちの生活環境は、本当に激変の日々です。
これについて行くのはどんな人でも容易ではありません。
ところで、ある本を読んでいて「なるほど」と思うことがありました。
私たちは良く親や周りからよく考えるようにと躾けられたと思います。
これは、思考の中枢である前頭葉など大脳皮質を鍛える作業に他なりません。
しかし、考えることよりもっと大切なことは、直感や危機感等、野生の勘を磨くことにあるようです。
これは、大脳皮質の下に位置する、視床や大脳辺縁系を鍛えることに他なりません。

良く巷では前頭葉などの大脳皮質を鍛えることを重んじますが、これが一人歩きすると
「~せねば」という頭でっかちの脳を作ることになりかねません。
我々が生きる上で、本当に大切なのは直感的に見極める脳を鍛えることのように思います。
そうだとすると大脳皮質だけでなく、生命を維持する上で大切な大脳辺縁系を磨く必要があります。
ただそれは、そうすれば良いか?

恐らく、体にとって良いことをすることなのだと思います。
体力を整え、胃腸を労り、そして睡眠を規則正しく取ることなどのような取り組みを侮らないことだと思います。
これは自律神経を整える働きに他ならず、これが大脳辺縁系の能力を高める布石になるのだと思います。
人の前に命のある生き物として、体を大切にする。これがあながち心の健康に通じるのだと思います。

樋之口

令和4年6月26日

当院に通院されている患者さん、そしてこのホームページを初めて見ていらっしゃる皆さま、こんにちは。7月にもなっていないのに酷暑が到来してしまいました。もう体が干からびてしまいそうです。

当院は平成31年4月2日に調布布田で産声を上げて以降、まる3年が過ぎました。多くの患者さんに支えられ、ここまで来ることができましたが、コロナ禍の感染対策や来院患者さんが多くなったことで、皆さんに十分な時間を割けられなくなったこともまた事実です。クリニックの運営だけではありませんが、人生とは限界の中で生きる作業であり、苦行なのだと思い知らされている今日この頃です。でも、限界を知る事は生きる上で、私たちに新たな気づきも与えてくれると考えています。

私たちの悩みの根源とは何でしょうか? 現時点では私は、自分だけでなく周りに対しても、限度を超えて多くの物を望み、その得られない思いに打ち拉がれた状態を指すのだと考えています。このことは、自分に目を向ければ、悩みや不安に対し「之さえなくなれば」と自身を責めたてたり、周囲に目を向ければ「私の悩みを何故察してくれないのだ」と他人を責めたてたりすることを意味しています。つまり、求めたのに思い通りに得られないことに対し失望と怒りから、自他を責め続けている状態に陥っているのです。勿論患者さんは辛いからこそ、上記の行動を取り続けてしまうのですが、このような態度が益々苦しみを募らせているといった悪循環を、我々は今一度知っておく必要があります。

考えてみれば、生きている限り不安や苦痛から逃れることは出来ません。周囲が自分の苦痛を1から10までサッと察しお膳立てするようなこともありません。この厳しい事実を私たちは引き受けなくてはいけません。つまり、自分にも他人にも限度や限界があることを認めなくてはならないのです。けれども、このように限界を認めることは決して負けではありません。むしろ人生を生きる上で大切な知恵なのです。

致し方ないと引き受けたとしたら、その一方で是非自身の身体と目の前の取り組みを是非大切にしていってください。特に自分のことを責めてばかりの方であれば、自身の身体の健康を誰よりも考え、労わることを大切にしていって欲しいと思います。一方、察してくれないことで周囲を責めたてているとしたら、今度は自分から言葉を発し、簡潔に要望することを意識していってください。相手に察して貰うのではなく、理解してもらうことを心がけるのです。そして、このような態度の転換は自分を生かすための心得と捉えてほしいと思っています。皆さんの回復が少しでも進むことを心より願っています。

院長 樋之口潤一郎

令和4年6月26日

皆さん、こんにちは。この発信は当院に通院されている患者さんと同時に、初めてこのホームページを見にこられている皆さんにも発信しています。

現在、初診予約が取りづらく、皆さんの要望にスムーズに応えられないことにもどかしさを感じておりますが、医師が私だけであることを踏まえ何卒ご理解を頂ければと思います。

スタッフは総勢4名になります。メンタルクリニックとしては標準的な人数ではないかと思います。その中で事務員さんが2名、看護師さんが1名、そして医療ソーシャルワーカーさんが1名となっています。それぞれが役割を持ち患者さんに関わっています。ちなみに当院では心理師さんはおりません。そのため、時間をかけた心理カウンセリングや心理検査などは他の自費治療機関にお願いして対応しています。その上で、当院でもマネージメントを実践しておきたいと思っております。

開院3年目で基本的な事をお伝えしていませんでしたので、ここに遅ればせながらご紹介させていただきます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

院長 樋之口潤一郎
立葵の花
初夏に咲く、立葵の花(好きな花の一つです)

令和4年1月6日
新年に思うこと

皆さん、あけましておめでとうございます。

昨年はコロナ禍での診療で慌ただしく時が過ぎてしまいました。
私だけでなく、スタッフも目の前のコロナ対策と、それぞれの患者さんの対応に必死になり、
中々ゆとりを持って皆さんと接することが出来ないこともあったかと思っています。

また昨年は、色々なことを考えさせられた一年でした。
クリニックを開院し2年半、患者さん皆さんにお役立て頂けるようにと日々努めてきたつもりですが、
運営を行う上で、クリニックという治療の枠組みの限界にも直面することが多々ありました。
患者さんの病状によっては、治療をお断りすることもありました。
辛い局面はいくつかありましたが、このことを通じて、私は、治療者として出来ること、出来ないことを
患者さんにしっかり伝えていくことも、また主治医の役目なのだと実感するようになりました。

患者さんは辛い状態に身を置いている訳ですから、その状態が厳しいときほど、
何を取り組むべきかが分からなくなっていると思います。
道しるべが時に治療では必要なのです。その際、道しるべを伝える上で、これはやってはいけない、出来ないなど、
多少患者さんからすれば厳しく聞こえる助言も不可欠であると感じています。
なぜなら、この治療の目標は何でも思い通りにことを進めることにあるのではなく、
制約の多い世の中で、生き抜く知恵を身につけていくことにあるからです。

そのためには、物事には色々限界があることを知っていく必要があります。
限界を知ることは、自他に多くを求めすぎず、今あるものでどうやりくりするかを体験することに
繋がると感じています。このことを皆さんの診療の中で具にやり取りできればと思います。

あと、これは大切なことなので触れておかねばなりません。
昨年末、大阪でクリニックが放火されるという事件がありました。
このことは我々だけでなく、患者さんの心の奥底にも動揺を与えたと思います。
この一件で、私たちスタッフは話し合いを持ち、皆さんの誘導などを検討しました。
幸い、当院は窓が多く、火災になっても空気が抜けやすい構造になっています。
ただ非常階段はないため、先日、非常用の吊り梯子を購入し、有事に備えることにしました。
皆さんにとって、少しでも安心できるクリニックでありたいと思っています。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

院長 樋之口潤一郎

令和3年1月4日
WhyからHowのすすめ

あけましておめでとうございます。昨年はコロナに始まり、コロナに終わった一年でした。
私自身もその慌ただしさに飲まれ、一年があっという間でした。新型コロナウィルス感染症が
日本を席巻してから、今まで当たり前だった生活が一変してしまいました。その戸惑いは私たち
だけでなく、ここに来院されている皆さんにも大きく波及したと思います。

こういう悲運が不意に襲ってくると、我々はその運命を呪い、「なぜ」と自分や他人に怒りをぶつけがちです。
勿論、その怒りは至極当然であるし、怒りを抱かない方が不自然でしょう。しかし、怒りに任せ誰かを
攻め続けている内は、物事は何も好転しないばかりかむしろ悪化させてしまうものです。
これは昨年、診療の中で思ったことですが、このような時は、「なぜ」ではなく、「どうやって対処するか」
という視点の転換が必要です。WhyからHowへの転換と言ってもよいでしょう。
その際、完全に対処する必要はありません、凌ぐ程度で十分だと思います。それだけでも
一日は進んでいくのです。皆さんの一日が凌ぎつつも着実に前に進むことを願っています。

樋之口

令和2年7月15日

梅雨がいつ開けるとも分からぬ日が続いています。低気圧は水を体にため込み安くさせ、倦怠感を作り出します。その生理現象が、気分を更に沈滞させるのでしょう。最近は数分程度の運動が意外に体の新陳代謝を促し、体から余分な水分を排出させるのではないかと考えています。
身軽であることは、行動をしやすくする大原則です。皆さんも是非試してください。

これはありがたいことなのですが、最近初診のお問い合わせの電話が多くなりました。
そのため、現在8月まで当院の初診枠が埋まっており、最短のご案内が9月になっております。
急がれている患者さんにとっては、大変ご不便をおかけしておりますが、何卒ご理解をいただければと存じます。よろしくお願い申し上げます。

令和2年4月30日
「森田療法がコロナ不安に果たす役割」

新型コロナウィルス感染症の対応に忙殺されておりましたが、考えてみればもう今日で四月は終わりですね。三寒四温と共に、空は正に初夏の陽気を物語るような青空になっています。

ところで、私は森田療法という精神療法を専門としています。森田療法とは、約100年前に森田正馬という精神科医によって作られ、不安に対する態度の転換を説いた精神療法です。不安は誰にでもある自然な感情ですが、完全主義の傾向が強い一部の人は、この不安を「あってはならないもの」と捉え、徹底に排除を試み、安心を得ようとします。
しかし、安心を盲目的に求める姿勢は結果的に、却って不安へのとらわれを生み、この心理的悪循環の結果として、様々な神経症の症状を作り出すことになります。

一方で、不安を排除しようとする裏側には、「不安を取り除いて良い暮らしをしたい、健康でありたい」などのより良く生きるための欲求が隠れています(森田療法ではこの欲求を「生の欲望」と言っています)。森田療法は、不安は消すことを治療のゴールにせず、不安を抱えながら少しずつ欲求を日常生活に発揮し、生活力を養っていくことを目標とするのです。

しかし、不安に苦しんでいる人々がそう簡単に欲求に気づける訳ではありません。だから、最初は不安におびえながら日常生活に少しずつ取り組み、行動していく姿勢が重要となります。手や足など体を使いながら、家事など目の前の生活に打ち込んでいくのです。
つまり、このことは不安で一人考え込む姿勢から、日常生活を通じて、五感を磨き、感じる力を育てていくことを意味するのです。このような体験を積み重ねる中で、人々は徐々に「何とく~してみたい」などの感じを覚えるようになります。
つまり、これこそ欲求(生の欲望)の芽生えであり、この感覚を実生活に反映させていくように心がける姿勢こそが、不安の中で生き抜く力そのものとなるのです。

このような文脈から、今世の中で起こっているコロナ問題を見ると、私たちはコロナ感染症の見えない魔の手に怯える余り、安心を得ようと出所の不確かな様々な情報にしがみ付き、さらに自分たちの手で不安を強めているのです。
このことを、私のもう一人の師匠である北西憲二先生がご自身のクリニックのホームページで詳細に説いています。

私たちが不安になるということは、それだけ激動の時代に晒されていることに他なりません。
だからこそ不安になって当然なのです。不安だからこそ、どの様に今後生き抜いていこうかと考えを転換させ、実践していくことが求められているのです。そこで、目の前の日常生活を大切にする、体の健康づくりに心を配るなど、当たり前の取り組みにもう一度注目し、自分の足元の生活を豊かにすることを心がけて行ってください。この取り組みは時代を超えて普遍的なものです。このような実践を通して、私たちそれぞれが持っている欲求を育てて行って欲しいと思います。

そして、この生活がしっかりすることは、結果的にウィルス感染症に対し抵抗力をつけ、ウィルスとの共存を可能にするのではないかと考えます。

このような考え方が日本の医療にあることをご参考いただければと思います。

潤クリニック

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